☆皆さんお元気ですか?☆
デモデビューにして、自分の歌を通して脱原発・反原発を訴えたことで、
以降、大小様々なデモで歌うようになっていた。
とにかく使命感に燃えていた。
そして多くの、いわゆる”普通の人々”が、「原発はいらない」、「原発は危ない」を叫びに来ていた。
その時の人々のコールからは、悲痛な思い、みたいなものが伺えた。
被災地の「現実」と東京の「現実」は全く違う。
そして「現実」とはその人が所属する社会(仕事や立場など)によって異なるということを身をもって学んだ。
私の周りでは・・・被爆のことを心配する人が非常に多かった。福島の方々の救済はたまに話題になっても、被災したそのほかの地域のことが話題になることはあまりなかった。
テレビや新聞の中では・・・被災地の被害の悲惨さは伝えるが、福島第一原発の状況や反原発運動を伝えるメディアは皆無に近かった。
日本って結局、自分の視界と思想が作り出す(もしくはメディアによって作り出された)イメージ国家ではなかろうか。そんなことすら考えた。
私は「被災地支援」も「反原発運動」も等価に重要なことと考えていた。
もちろん今も。
ただやっかいなのは、同じ時に起こった2つの事象だけど解決策が全く異なるということだ。
なぜか、どういう訳か「被災地支援」と「反原発運動」をどちらもやることは「すごく面倒なこと(難儀という意味)」という印象(そんな空気)があった。
私はほぼ無名のアーティストだし、このキャラクターのせいか、どちらの活動に参加しても避難されることはさほどなかった。
(ごくたまにネット上で下っ端の右翼からつっつかれるくらい→もちろんシカト)
私個人としてはもっと有名人が訴えてくれたら影響力あるのになあ…
そんなことはずっと思っているけどね。
2年経った今だからこそ、そんな人がどんどん現れてもいいと思うけど。
私が一番心を寄せたい人々、それは故郷の漁民、第一次産業従事者だ。
私の父方の祖父はもともと宮古市光岸地という海に隣接した土地で、
港にあがった魚を市場におろす為の木箱を作る会社を営んでいた。
もちろん家族経営の小さな会社で、近所からはハコヤ、ハコヤさんと言われていた。
そして私の親戚も漁業従事者が多かった。
時代の流れで木箱は発泡スチロールの箱にとって代わり、祖父は会社をたたんだ。
ちょっと脱線したけれど、私が漁業従事者へ対するこだわり(愛情)はここに起因する。
岩手県はかの宮沢賢治を輩出している土地。
農民も漁民も愛情をもってその仕事に従事している。
宮古の重茂地区などは、そこに住む住民達は一切合成洗剤を使わず海を守っていた。
海の恵をいただくかわりに環境美化につとめ共存共栄をはかっていた。
そんな彼らが大津波によって全てを失い、原発事故によって海を汚染された。
まさに踏んだり蹴ったりではないか・・・。
融通の効かない縦割り行政に翻弄され、
被災地から離れた人々からは「東北の食べ物は危険だから食べない」と言われ・・・本当に散々だ。
本当に悲しい。
彼らこそ心の中で「原発さえなければ」と叫んでいるのだ。
再建のための補助金は彼らのために必要だし、彼らの生業こそ行政と密着している。
だから「原発のこと」は言うに言えない。
私はこのことを責められないと思う。
ここ(東京)に住む私だから「原発いらない」を言えるんだ。
そして声に出せない思いのためにも、ここにいる私が言わなきゃならない。そう思っている。
【続く】
リクルマイ