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3月11日が過ぎ、思うこと(3)

☆皆さんお元気ですか?☆

そんな思いの私だけど、
このようなアクションをやっていて凹むことも少なからずある。
ちょうど震災から1年経った去年の3月11日頃の話だ。

私が心を寄せている、他ならぬ東北の方の
「リクルマイは脱原発などやらずに被災地支援だけしてればよい」というツイートを偶然見た。

これはけっこう応えた。
素性もわからぬ名前とアイコンだし(もっとも私もその方の素性を探ろうとは思わなかったけど)、
こちらも気にしないように努めたけど意外と尾を引いた。

様々なアクションで矢面に立つ身だから、このようなことは避けて通れない。
ある程度覚悟の上でやっているけれど、「私は間違っているのかな」とか「故郷の人々の気持ちを踏みにじってしまっていたのかな」とか、ものすごーーーーーーーーーーく考えてしまった。

私の言葉は断定的なものが多い。
それ以前にまだまだ未熟な人間だ。
ツイッターなど限られた文字数で的確に言い表すのも至難の業、私の言葉が人々に不快を与えたのは想像に易い。

それでもその当時の様々なデモでは変わらずというかより強固に「原発いらない」を訴えましたけど(爆)。

その昔「蜂の一刺し」という言葉があったけど(古ッ)、そんな感じ。
世間の大きな声よりもだった一人の小さな声に慄き屈してしまうのだ・・・それが私だ。そう思った。

私は強くない。
人並みに、いえいえ、人以上に人様のことを気にするよ。


私がタフに見えるから、お構いなしにズケズケと足を踏んづけて行く人もいる。
ちょっと、私も人間ですって!イチオウね。と言いたい時も何度もある。

まあそんなことがあって、
震災から2年の今年の3月11日は静かに故郷に思いを馳せる日にしたいと思った。

そう心に決めたからこそ、
3月9日「さようなら原発集会」と10日「原発ゼロ☆大行動」もがっつり真剣に、そして気負い無くライブできた。

ライブ自体はいつも楽しい!
そしてこのようなアクションにおける音楽の重要性もひしひし感じている。

サウンドカーではリクルマイの最新作「DUB IS THE UNIVERSE」からの4曲が、
まさにこの場に集まった市民のための歌だと思って歌った。

バックを務めるリクルマイバンドのサウンドも援護射撃してくれているように響いた。

レゲエの現場でもご一緒するランキンさん、Hibikillaを筆頭に、
ジンタらムータやRUMIやYAHMANやDELI、悪霊などなど素晴らしい出会いがたくさんあった。

実際にジンタらムータとはレコーディングして作品を出すにまで至った。

そして実際に現場や集会に行くことで、新しいものの考え方、創意工夫あふれる発想を知ることができた。
これは被災地支援でも反原発運動にも言えること。

弱い立場の我々が疲弊していく一方の今(=経済至上主義)とは違う、
新しい価値観がたくさん芽吹いていることを発見した。

同時に多種多様な価値観の下での、気持ちを共有し続けることへの難しさも感じている。

【続く】 

リクルマイ
likklemai * - * 18:12 * comments(0) * trackbacks(0)

3月11日が過ぎ、思うこと(2)

☆皆さんお元気ですか?☆

デモデビューにして、自分の歌を通して脱原発・反原発を訴えたことで、
以降、大小様々なデモで歌うようになっていた。

とにかく使命感に燃えていた。

そして多くの、いわゆる”普通の人々”が、「原発はいらない」、「原発は危ない」を叫びに来ていた。
その時の人々のコールからは、悲痛な思い、みたいなものが伺えた。

被災地の「現実」と東京の「現実」は全く違う。
そして「現実」とはその人が所属する社会(仕事や立場など)によって異なるということを身をもって学んだ。

私の周りでは・・・被爆のことを心配する人が非常に多かった。福島の方々の救済はたまに話題になっても、被災したそのほかの地域のことが話題になることはあまりなかった。

テレビや新聞の中では・・・被災地の被害の悲惨さは伝えるが、福島第一原発の状況や反原発運動を伝えるメディアは皆無に近かった。

日本って結局、自分の視界と思想が作り出す(もしくはメディアによって作り出された)イメージ国家ではなかろうか。そんなことすら考えた。

私は「被災地支援」も「反原発運動」も等価に重要なことと考えていた。
もちろん今も。

ただやっかいなのは、同じ時に起こった2つの事象だけど解決策が全く異なるということだ。
なぜか、どういう訳か「被災地支援」と「反原発運動」をどちらもやることは「すごく面倒なこと(難儀という意味)」という印象(そんな空気)があった。

私はほぼ無名のアーティストだし、このキャラクターのせいか、どちらの活動に参加しても避難されることはさほどなかった。
(ごくたまにネット上で下っ端の右翼からつっつかれるくらい→もちろんシカト)

私個人としてはもっと有名人が訴えてくれたら影響力あるのになあ…
そんなことはずっと思っているけどね。
2年経った今だからこそ、そんな人がどんどん現れてもいいと思うけど。


私が一番心を寄せたい人々、それは故郷の漁民、第一次産業従事者だ。

私の父方の祖父はもともと宮古市光岸地という海に隣接した土地で、
港にあがった魚を市場におろす為の木箱を作る会社を営んでいた。

もちろん家族経営の小さな会社で、近所からはハコヤ、ハコヤさんと言われていた。
そして私の親戚も漁業従事者が多かった。

時代の流れで木箱は発泡スチロールの箱にとって代わり、祖父は会社をたたんだ。

ちょっと脱線したけれど、私が漁業従事者へ対するこだわり(愛情)はここに起因する。

岩手県はかの宮沢賢治を輩出している土地。
農民も漁民も愛情をもってその仕事に従事している。

宮古の重茂地区などは、そこに住む住民達は一切合成洗剤を使わず海を守っていた。
海の恵をいただくかわりに環境美化につとめ共存共栄をはかっていた。

そんな彼らが大津波によって全てを失い、原発事故によって海を汚染された。
まさに踏んだり蹴ったりではないか・・・。

融通の効かない縦割り行政に翻弄され、
被災地から離れた人々からは「東北の食べ物は危険だから食べない」と言われ・・・本当に散々だ。

本当に悲しい。

彼らこそ心の中で「原発さえなければ」と叫んでいるのだ。

再建のための補助金は彼らのために必要だし、彼らの生業こそ行政と密着している。
だから「原発のこと」は言うに言えない。

私はこのことを責められないと思う。

ここ(東京)に住む私だから「原発いらない」を言えるんだ。
そして声に出せない思いのためにも、ここにいる私が言わなきゃならない。そう思っている。

【続く】

リクルマイ
likklemai * - * 15:54 * comments(0) * trackbacks(0)

3月11日が過ぎ、思うこと。

☆皆さんお元気ですか?☆

久しぶりのブログ更新です。
今年に入ってまだ2回しかエントリーしていないなんて...Σ(゚∀゚ノ)ノ

今回は3月11日についての独り言を徹底的に。
あれから2年が経った。

2年前のあの時は自宅にいた。
テレビの画面で再三繰り返される故郷の大津波の光景に愕然とした。

実家への電話を繰り返せど不通・・・いつまでたっても不通・・・次の日もまた次の日も・・・。
生きた心地がしなかった。

母は勤め先、そしておばあちゃんはたった一人で家に・・・。
津波が去ってもまだまだ寒い日々が続く北の地、不安を通り越して絶望的な気持だった。

3週間たってようやく実家に戻った時に、母とおばあちゃんに会えた時は様々な感情がこみ上げてきた。
生きていてくれたことの喜び、大惨事を経て巡り合えた安堵、そして思い切り甘えたいような、胸に飛び込んでいきたいような気持ち。

でも、喜びもつかの間。身内に起きた不幸や様々な辛い出来事を知った。


母とおばあちゃんと再会した翌日には、宮古市の重茂漁協での炊き出しに参加。
集まった小中学生の前でライブをした。

避難所となった小中学校を周り、食料など物資を届けつつ、叔父さんを探した。

信号も機能しない非常事態の街を車で走る。目の前に広がるのは「めちゃくちゃ」な光景。

爆撃でもされたのだろうか…そんな変わり果てた港町に言葉を失った。

自分の非力を痛感しつつ、できることを粛々とやるしかない。
大震災直後の宮古での滞在はそんな感じ。


東京に戻ると、都内は「原発事故」の話題で持ちきりだった。

車で岩手から東京に向けて、凸凹の東北道を走っていたその日に、”素人の乱”主催の高円寺の「原発やめろデモ」が行われ2万人が参加していたことをtwitterなどで知った。

”素人の乱”主催の高円寺に続く渋谷の原発やめろデモでは、私は「原発いらない!」をコールする役割を任された。
今までデモに参加したことすらなかったのに!!

何の落ち度も罪もない東日本の人々が、
「家族を、仕事を失い、住処を奪われ、ふる里の海や山を汚され」窮地に立たされている事に、私は大いに憤っていた。

本気で怒っていた。その気持ちは今も変わらない。
そして、この気持ちこそが私の「脱原発・反原発」一連のアクションに参加する原点なっている。

【続く】 

リクルマイ
likklemai * - * 03:05 * comments(0) * trackbacks(0)
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